足掻くとよけいに苦しくなる

 「思うようにならないことを、思うままにしようとする」から『苦』になる。
逆に、思うようにならないことを思うようにしようと思わなければ、『苦』は生まれようがない。
地震の見舞いをくれた友人に、良寛さんは、
 「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」
と書き送った。このように、現実を現実として受け入れる心があれば、苦から逃れることができる。
 たとえば病気になったとする。どんな病気でもすぐには治らない。そこで、「なぜ私だけが」と嘆いたり、病気になったことにイライラしたり、「治らないのではないか」とくよくよしたり、「すぐによくなってほしい」と思って焦ったりしがちである。
そんな思いが病気には一番よくない。何事もイスラム教の「イン・シャー・アッラー」(神の御心のままに)ではないが、どうあがいても患ったものは仕方がない、誰でも死ぬときがくれば死ぬものだ、と自然の力に任せて生きていくことである。
そう達観するのは凡人には無理だと思いがちだが、明日を思い煩うことなく、日々の小さなことの中に喜びを見つけていくかぎり、そう難しいことではないと思う。

そばにいるだけで「心がやすらぐ」人

 岩橋武夫さんは大正六年、早稲田の学生だった二十歳のときに風邪がもとで網膜剥離にかかり、両目の視力を失った。
自暴自棄になって自殺を図ろうとした、まさにその時、それに気付いた母親が短刀を取り上げ、しっかりとわが子を抱きしめながら言った。
「お前に死なれて、この私が生きておられようか。たとえ、お前が盲人の無能な人間だ、穀潰しだ、と世間からさげすまれても、私はお前と一緒に行きつづける」
この言葉で彼は立ち直り、後に日本ライトハウスという日本で最初の盲人施設を設立した。

 あなたが ただそばに存在(いる)だけで 心がやすらぐ人がいる
 あなたが ただあなたで存在(ある)というだけで 誰かが癒されている
 あなたの存在(ありかた)そのものが 誰かに元気を与えている
 自分の存在を証明するために 無理して頑張って生きていると
 ふと忘れてしまうことがある 自分が存在(いる)というだけで
 誰かの心をあたためていることや 誰かの生きる支えになっているということを

(岡部明美『存在』より)